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梅原克文のサイファイ構想

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 このファイルは本来「梅原克文のサイフィクト構想1」として構築されたものであるが、梅原氏自身の構想の変化により、現タイトル「梅原克文のサイファイ構想」に書き改められた。これはさらに改訂を加えたものである。【青山:注】


  1章

 現在、ほとんどの出版社が「SF」の二文字を嫌っている。いや、それ以前に大衆読者が「SF」の二文字を嫌っている。
 最大の問題は、SF関係者たちが「SF」の「シニフィエ、記号内容」を二種類の意味で、無原則に使い分けてしまう点だ。つまり、ある時は「大衆娯楽小説」を「SF」と呼び、ある時は「マニアックで大衆受けしない小説」を「現代SF」と呼ぶのである。これでは大衆からの信頼を失い、ブランドの地位から滑り落ちるのは理の当然だ。
 たとえば近年では、SF作家クラブが、宮部みゆき氏や瀬名秀明氏らにSF大賞を授与し、特別賞を井上雅彦氏に授与した。そのことを、私は評価したい。
 だが、効果は「焼け石に水」だろう。もはや手遅れだと思う。
    *
 そこで私は、「SCIENCE-FICTION」のスペルに基づき、「SCI-FI、サイファイ」という新ブランド&新コンセプトを立ち上げる案を構想し始めた。
 つまり、CI(コーポレート・アイデンティティー)を行うのだ。「KARATE」や「KICK-BOXING」をやめて、「K1」(ケイ・ワン)を生み出したのと同じ方法論だ。
    *
 ちなみに「サイファイ」とは、アメリカのSFマニアたちが侮蔑語として使っていた言葉のようだ。「SFもどきのクズみたいな大衆娯楽作品」という意味だ。
 ところが、現在アメリカでは「SCI-FI UNIVERSE」(サイファイ・ユニヴァース)という、映画&テレビ雑誌が出ている。侮蔑語だった「サイファイ」を、堂々とタイトルに掲げる雑誌が登場しているのだ。
 たぶんアメリカでも大衆娯楽文化の担い手たちは、ビジネス意識のない旧SF関係者たちにうんざりしたのだろう。そこで旧SF関係者たちと、大衆娯楽文化の担い手たちとを明確に区別するため、「大衆娯楽サイエンス・フィクション」の意味で、侮蔑語の「サイファイ」を採用したらしい。
 これはグッド・アイデアだ。繰り返すが、「サイファイ」は旧SF関係者たちが使う排他的な侮蔑語だった。だから、旧SF関係者は「サイファイ」を名乗る大衆娯楽作品には、絶対に口出しできないのだ!
    *
 さて、「SF」と「SFもどき」が存在するということは、日本の旧SF関係者たちも、よく書いていた。つまり、「二種類の文化が並立している」と言い出したのは、実はSF作家クラブ所属の旧SF関係者たちなのだ!
 彼らも「SFもどきのクズ」という、アメリカ流儀の「サイファイ」そっくりの言い方をしていた。洋の東西を問わず、同じ認識は存在したのだ。
 また、旧SF関係者たちの特徴として、部外者には理解しにくい定義をする点があげられる。例をあげると、こんな感じだ。
「この小説には、SF的小道具やSF的設定が出てくるが、SFマインドが感じられないから、SFとは認められない」と。
 ところがだ。
 実際に黒字を稼いでいるのは、往々にして、それら「SFもどきのクズ作品」だったり、「SFマインドが感じられない作品」だったりするのだ。大衆は、旧SF関係者たちの定義基準など、まったく相手にしていなかったのだ!
 これは、どういうことなのか?
 「スコラ的論争」だ!
(辞書によれば、スコラ的とは「スコラ哲学のように、部外者にとっては、たいして重要性もない事柄について、煩瑣な論議をするさまをいう」とある)。
 つまり、「SFもどきのクズ」や「SFに似ているが、SFではない」と言われ続けた作品群も、実は市場において立派なデファクトスタンダード(事実上の業界標準)の地位を占めていたのだ!
 ならば、旧SF関係者の「スコラ的基準」など無視して、実状に合わせた新ラベルを張りなおすのが、正しいビジネス・ヴィジョンだろう。
 以上が、「サイファイ」の起点である。
 つまり「サイファイ」は「純商業目的のブランド」なのだ。「スコラ的なSF」とは、まったく異なる概念なのである。
 アメリカの実例にならって、日本でも「サイファイ」を公式ブランドとして立ち上げる準備を進めるべきだろう。
 以後、その意義やメリットについて考察していきたい。

  2章

 参考資料として、「K1」(ケイ・ワン)のネーミングの根拠を見てみよう。
(1)「KARATE」と「KICK-BOXING」の頭文字が同じ「K」であること。
(2)自動車レースの世界最高峰のイベント名が「F1」(フォーミュラー・ワン)であること。
 そこで、「KARATEとKICK-BOXINGの世界最高峰のイベント」という、新しい意味づけを作って、「K1」とネーミングしたのだ。
 では、「SCI-FI、サイファイ」は、どうなのか? これは「K1」とは少し異なるコンセプトである。
 まず、現状をすなおに見よう。すると、SF及びその周辺には、三種類の文化が存在する、とわかる。以下のとおりだ。
(1)マニアックで大衆受けしないSF小説
(2)娯楽SF小説(例:マイクル・クライトン)
(3)SFもどき娯楽小説(例:クーンツ)
 従来、旧SF関係者は(1)と(2)を「SF」と呼んでいたのだ。
 ところが、大衆が金を払ってくれるデファクトスタンダード(事実上の業界標準)は、(2)と(3)だ。
 この食い違いが問題だった。大衆の視点から見ると、「SF」は、「シニフィアン、記号表現」と「シニフィエ、記号内容」がすなおに一致していないラベルだったのだ。
 そこで(2)と(3)とを合わせて、「サイファイ」という新ブランドにするわけだ。「サイファイ」ならば、大衆の視点から見た時の「記号表現」と「記号内容」がすなおに一致するのである。
    *
 ここで、チョムスキーの言語理論を引用しよう。これには「偶然の空白」と「体系上の空白」という定義がある。
 「偶然の空白」とは、その言語形式の中に存在できるはずなのに、今まで存在しなかった形式を指す。たとえばジャズドラマーの小山彰太氏が発案し、タモリが得意芸としたハナモゲラ語だ。
「さてました ですかここゆく もしあんな なんじくるする ささそれするか」
 小山氏によるハナモゲラ短歌の一例である。いかにも日本語風の音節の連なりなのだが、日本語ではない。これこそ「偶然の空白」であり、そこを突いたギャグなのだ。
 一方、「体系上の空白」とは、その言語形式とは相反するために、存在できない形式を指す。
 たとえば「晴れがましい」という言い方はあるのに、「美しがましい」という言い方はない。接尾辞「がましい」は形容詞にはくっつかない、という日本語の体系のせいである。ゆえに「美しがましい」は「体系上の空白」なので、存在できないのだ。
(以上の定義例は、井上ひさし著「自家製文章読本」を参考にした)
    *
 では、「K1」という概念は「偶然の空白」に当たるのか、それとも「体系上の空白」か?
 前者である。
「K1」は「空手家」と「キックボクサー」を一堂に集めて「勝ち抜き・世界一決定戦」をやらせるイベントだ。こういう設定は、テレビゲームの格闘技ソフトでは当たり前だった。
 だが、この種のイベントが現実に開催されたことは、「K1」以前にはほとんどなかった。まさに「偶然の空白」だったのだ。
 では、「サイファイ」という概念は「偶然の空白」に当たるのか、それとも「体系上の空白」か?
 前者である。
 「娯楽SF小説」は存在するし、「SFもどき娯楽小説」も存在する。そして大衆は、両者を厳密に区別していなかったことは、もう明らかだ。それを厳密に区別したがるのは、「スコラ的基準」にこだわる旧SF関係者だけだった。
 大衆の視点を基準にするなら、「娯楽SF小説」と「SFもどき娯楽小説」を統一するブランド名があるべきなのだ。出版社もその方が商売上、何かと便利であろう。
 なのに、そのブランド名が今までなかった。まさに出版市場の「偶然の空白」だったのだ。
 「サイファイ」は、二一世紀に向けて、その空白を埋める有力候補として名乗りをあげるわけだ。ちょうど「K1」のように。
    *
 さて、次の「3章」では、「偶然の空白」について、少し角度を変えて論じてみる。

  3章

 一九七〇年代後半、映画「未知との遭遇」が公開された。内容は今さら紹介するまでもないが一応、要約しておこう。
「UFOに乗って地球に飛来した異星人と、アメリカ政府とが密かに接触した。主人公は民間人だが、軍隊が封鎖している地域に侵入し、その接触を目撃する……」
 これは、今風に言えば「トンデモ本の内容をエンターテインメントに仕立てた映画」である。
 さて、旧SF関係者たちは、「未知との遭遇」をどう評価したのか?
 猛反発だった。アメリカでも、日本でも、多くの旧SF関係者たちが、「こんなものはSFではない!」と、「未知との遭遇」をこきおろしまくった。
 しかし、そんな旧SF関係者たちを嘲笑するかのように、「未知との遭遇」は大ヒットを記録した。つまり、大衆は「未知との遭遇」がSFであるか否かなど、まったく気にしていなかったのだ!
 この時点で、チョムスキー言語理論で言う「偶然の空白」が姿を現したのだ。現在の私は、そう捉えている。
    *
 まず「未知との遭遇」がどんな性格の作品か、少し整理しておこう。
 実は、監督のスピルバーグ自身がインタビューで再三こう言っているのだ。
「『未知との遭遇』はSFではない。ノンジャンル・アドベンチャーだ」
 ところが、映画会社は「SF超大作」のコピーで宣伝してしまったのだ。スピルバーグにとっては不本意だったようだ。だが、当時は雇われ監督の立場だったから、どうすることもできなかったらしい。
 つまり、スピルバーグは「SF」と「非SF」を区別する基準を、ちゃんと承知していたわけだ。だから、「未知との遭遇」は「非SF」であると、当人も承知していたのだ。
 だが、それとは別に、やはりスピルバーグは直感に秀でた天才であろう。彼は誰よりも早く、「SFであるか否か」と、「大衆のニーズに応えること」とは、「まったく別の次元の問題である」と見抜いていたのだ!
「『未知との遭遇』はSFではない。ノンジャンル・アドベンチャーだ」
 スピルバーグの、この主張は、チョムスキー言語理論で言う「偶然の空白」を、天才の直感で捉えていた証拠だろう。
    *
 さて、「SFであるか否か」の基準についても、少し触れよう。実は、これほど説明しにくい概念はないのだ。
 これは、過去のたくさんのSF小説を読みこなした人間ならば、「何となくピンとくる感覚的な基準」だ。
 だが、同時に、これはスコラ的な感性に過ぎないのだ!
(辞書によれば、スコラ的とは「スコラ哲学のように、部外者にとっては、たいして重要性もない事柄について、煩瑣な論議をするさまをいう」とある)。
 したがって、「SF」というスコラ的基準を、いくら振りかざしたところで、世間では何の権威も持てないのである。それどころか、これについて説明すればするほど、一般人はあくびするだけだ。私自身、いくら説明しても、わかってもらえなかった時のもどかしさは経験済みだ。
 そしてスピルバーグから十年遅れて、八〇年代後半に私も気づいた。
 「偶然の空白が存在する」と。
 つまり、大衆は「娯楽SF作品」にも金を払うが、「SFもどき娯楽作品」にも金を払うのだ。これが現実なのだ。つまり、スピルバーグが言う「非SFのノンジャンル・アドベンチャー」でも、大ヒットを記録できるのである。ビジネスになるのである。
 ところが、日本SF作家クラブのメンバーたちは、この「偶然の空白」を理解できなかったようだし、何の対処もしていなかった。おかげで新しいビジネス・チャンスを逃した。さらには、現在の活字SF氷河期まで招く結果になったのだ。
 一方、私が構想し始めた「サイファイ」とは、こうした失敗を繰り返さないための新ブランドである。
 つまり、「サイファイ」の場合は、「SFもどきのノンジャンル・アドベンチャー」もブランド商品の一つとして積極的に受け入れる方針なのである。
 ゆえに今の私は、こう宣言する。
「『未知との遭遇』はSFではない。サイファイだ。現にアメリカでは、そういう意味で、サイファイという言葉は使われているのだから」と。
 繰り返すが、「サイファイ」は「純商業目的のブランド」なのだから。

  4章

 以下の実例で、「サイファイ」と「SF」について、考えてみよう。
    *
 近年、日本の柔道界は、「カラー柔道着の導入」で揺れていた。
 まず西欧諸国が、こう提案したのだ。「一方の選手が白の柔道着で、一方の選手が青の柔道着を着用すれば、観客にとっては選手が区別しやすく、わかりやすくなる」と。
 しかし、日本の柔道界は反発した。「柔道着が白なのは日本の伝統だ」というわけだ。
 最終的には、日本以外の圧倒的多数の国が「カラー柔道着の導入」に賛成し、可決した。したがって、今後は日本人選手も国際試合に出場する時は、「カラー柔道着」を着用する義務が課せられたわけだ。
    *
 さて、私は日本人ゆえに、日本の柔道関係者の気持ちは、よくわかる。
 私も「青い柔道着を着た選手」を見た時は、違和感を覚えたからだ。これは「昔の安っぽい香港カンフー映画に出てくる、悪役日本人の珍妙なファッションを観た時の違和感」に似ている。
 しかし、外国人たちにとっては、どうだろうか。日本人の「白い柔道着へのこだわり」など、外国人には「スコラ的」にしか思えないだろう。
(辞書によれば、スコラ的とは「スコラ哲学のように、部外者にとっては、たいして重要性もない事柄について、煩瑣な論議をするさまをいう」とある)。
 つまり、国内では「伝統的な美意識」でも、国際社会では「スコラ的」になるのだ。こうした事例は、今後も数限りなく生まれるだろう。
    *
 ここで視点を、西欧社会で生まれたボクシングに転じてみよう。
 ご存じのとおり、ボクシングは選手を色分けしている。赤コーナーには赤グローブの選手、青コーナーには青グローブの選手という様式だ。
 つまり、「カラー柔道着」の問題は、「伝統A」と「伝統B」の食い合いなのだ。地球上には、「選手を色分けしない伝統」と「選手を色分けする伝統」とが存在したのだ。国際化とは、こうした伝統同士の食い合いを加速する結果を生むのだ。
 これは避けられない宿命だろう。
    *
 さて、長々とこんなことを書いたのは、私が提案する「SCI-FI、サイファイ」と「SF」との関係に、類似点があるからだ。
 「カラー柔道着」も「サイファイ」も、導入の目的は、まったく同じなのである。

・「カラー柔道着」=「観客の目に試合がわかりやすくなる」
・「サイファイ」=「大衆読者に、スコラ的なSFよりも、わかりやすい娯楽作品を提供する」。
 次の点でも、共通している。
・「カラー柔道着」=「日本人の美意識に反する」
・「サイファイ」=「旧SF関係者たちの美意識に反する」
 さらに、「美意識とは、外部から見れば往々にしてスコラ的である」という残酷な現実をえぐり出した点も似ている。
 つまり、「狭いグループの中だけで通用していた美意識」というのは、どこにでもあるのだ。また、そういうものを「イデア」として絶対視していた人々も必ずいる。
 だが、そうした美意識が「スコラ的」なものとして切り捨てられる日も、いつかはやってくる。これが現実なのである。
    *
 というわけで、国際化の流れの中で、世界各国の柔道関係者たちが、日本の柔道関係者たちの反対を押し切って、「カラー柔道着の導入」に踏み切った経緯を、参考例として見ていただいた。
 これで、私が「スコラ的なSF」を捨てて、「大衆娯楽ブランドのサイファイ」を提案している理由もわかるはずだ。つまり、「世の中全体からのニーズに応える」ということに他ならないのだ。
    *
 旧SF関係者たちは、ある作品を指して「これはSFであるか否か」といった「スコラ的な論争」に耽るのが、大好きな連中だった。
 私に言わせれば、そうした旧SF関係者たちの「スコラ的」な態度によって、「SF」は「オタクのスラム街」と化して、自滅したのである。
 一方、「サイファイ」の場合は、そうした「スコラ的な論争」とは一切、無縁の文化となる。
 ずばり言おう。
 「サイファイ」とは、「作家と出版社が金儲けするためのブランド」であり、「大衆に奉仕するためのブランド」である、と。
 だから、「サイファイ」とは、こういう定義もできるのだ。
 「超科学や超自然といった領域を扱って、金儲けできる物語や、金儲けできそうな物語のことである」と。
 つまり、ある作品を指して「サイファイであるか否か」を決める基準は、「金儲けに結びつくか否か」なのだ。
 ゆえに「二一世紀のサイファイ作家」は、「SF」という「金儲けに結びつかなかった前世紀の遺物」を廃棄するのだ!!

  5章

 「サイファイ」ブランドは、アーサー・C・クラークの代表作「幼年期の終わり」を否定する!
    *
 「幼年期の終わり」のあらすじは、「地球人類がさらに進化して超人類になっていく」というものだ。
 しかし、「今の地球人類がさらに進化することはありえない」のだ。
    *
 養老孟司氏の著作『唯脳論』によれば、人間の脳は一〇万年前に進化が終わってしまったのだ。そして、それから現在まで、変化も進化もない。
 この事実と経験則から見ても、人類がさらに超人類へと進化することはありえそうもないのだ。
    *
 ところが、クラークの「幼年期の終わり」は、それが「ある」という結論を出して、物語を終えている。
 もちろん作り話に過ぎないのだから、どんなお話を作っても、それは自由である。
 しかし、「作り話と現実を混同してはならない」のだ。「超人類への進化」をどんなに美しい物語に仕立てても、それは「絵に描いたモチ」だ。食べられないのだ。そうした一般常識を忘れてはならない。
    *
 しかし、多くのSF関係者は、「幼年期の終わり」から悪影響を受けて、「作り話と現実を混同した」のだ。
 SF関係者は、「我々は無制限に進化できる」と信じてしまったようだ。
 その結果、どうなったのか?
 「無制限の進化」という「存在しないイデアを追求するようになった」のだ。
 かくて、SF関係者は、「正しい伝統主義と、正しい保守主義を見失った」。それどころか『「ハードウエア=脳」が保守的だというのに、「ソフトウエア=SFという文化」だけは特別扱いであり、無制限の進化がありうる』、と主張した。もちろん、こんなのはバカげた妄念である。
 そしてSFは末期的な症状を呈して、自滅した。何しろ最後には、大衆が読もうとしない異常にマニアックな超メタ言語的な小説を、「より進化した小説文化だ」と信じ込んで、SF関係者は完全に世間から見離されていった。
    *
 いつの時代にも「現世を否定したがり、イデア的な来世を望む人々」は、必ずいる。すなわち「ハルマゲドンのような最終戦争が始まって、その後、少数派の自分たちにとって都合のいい、おたく千年王国が来ればいい」と思っている人たちである。
 アーサー・C・クラークのSF小説「幼年期の終わり」は、まさにそうした「現世否定心理」と、「イデア的来世を待望する心理」を充足させてくれる作品だった。
 この「幼年期の終わり」のような作品こそが、そのまま「SFの終わり」のきっかけとなったのだ。
 すなわち「幼年期の終わり」から悪影響を受け続けたSF関係者は、やがて現世の大衆市場から撤退してしまい、「SFサティアン」に閉じこもって、「イデア的な、おたく千年王国」の到来を待つだけの弱虫に成り下がってしまった。そんなものは永久にやってくるはずがないのに!
    *
 こうした「自滅への最初の引き金」こそが、クラークの代表作「幼年期の終わり」だったのである!
 ゆえに「サイファイ」ブランドは、「幼年期の終わり」を悪書に指定する!

  6章

 今、まとまりつつある「サイファイ」の「経営方針」は、以下の通り。
 これは言うなれば、「サイファイ定款」の準備稿である。

(1) 「サイファイ」の定義は、大ざっぱにはこうである。
 @「現実的で日常的な舞台設定から物語の幕が開いて、徐々に超科学・超自然の世界へ客をいざなっていく大衆娯楽ストーリー」。

 Aただし、@の定義から外れていても、「サイファイ」と認めるケースもある。つまり、以下の定義が当てはまるケースである。
 「超科学や超自然といった領域を扱って、金儲けできる物語や、金儲けできそうな物語」。

 Bつまり、「サイファイ」に、理想や理念はないのだ!
 あえて言うなら、「金儲け」が「サイファイ」の理想であり、理念である!

(2) 当然、「サイファイ」は商業的に成功を収めた作家を模範とする。たとえばマイクル・クライトンや、ディーン・クーンツである。
 つまり、従来は「SFもどき娯楽小説」といった分類を受けていたクーンツなども、「サイファイ」は模範とするのだ。
 「サイファイ」ブランドは商売第一であり、そこが『SF』とは異なる点である。

(3) 超メタ言語的な小説は排除する。
 この「超メタ言語的な小説」とは、梅原克文の造語である。
 つまり、個々の文章や、個々の場面に現実味がなく、言葉と現実との一対一の対応関係を壊して、勝手に『言葉だけの宇宙』を作ってしまったようなタイプの小説である。
 こうした超メタ言語的な小説によって商業的な成功を勝ち得た実例は、極めて希であった。筒井康隆のように、わずか一例しかないのだ。神林長平や大原まり子なども超メタ言語的な小説を書いているが、大衆にはまったく受けなかった。
 ゆえに『サイファイ』ブランドは、利益率が悪すぎる超メタ言語的な小説を排除する。

(4) サイファイ作家は、アマチュアのイベント(SF大会の類)などに無料サービスで参加してはならない。
 理由は、そうしないと、マニアや、おたくに、プロ作家がなめられっぱなしになるからだ。やがて、なめられっぱなしでいることを快感に思うような、中途半端なセミプロまで現れてしまう。
 つまり、大衆読者を相手に苦労を重ねて黒字を稼ぐビジネスよりも、アマチュア・イベントに参加して、そこでチヤホヤされることに生きがいを感じてしまうようなセミプロが現れてしまうのだ。
 そうなると、世間に数十万人から数百万人もいる大衆読者のことはどうでもよくなってしまい、アマチュア・イベントに参加してくる、わずか千人ほどのマニアや、おたくとの仲間意識の方が重要になってしまう。
 このような感覚は、商売を第一に考えねばならないプロとしては、完全に倒錯した感覚である。わずか千人のマニアよりも、数十万人から数百万人もいる大衆読者の方が、プロ作家にとって、より大切な顧客であることは明らかなのだ。
 だが、一度こうした勘違いにはまると、自分が感覚異常に陥っていることにも気づかなくなり、プロ意識は薄れていく。このまま放置しておけば、やがて大衆読者との感覚のズレが大きくなり、プロ作家全体が自滅に向かうのである。
 こうした自滅の仕方を形容するには、まさに『サティアン化した』という言葉が相応しいと言える。
 サイファイ作家は、このような自滅パターンにはまってはならない。
 サイファイ作家は、SF大会のようなアマチュア・イベントとは一切関わらないことが望ましい。

(5) 「サイファイ、大衆娯楽サイエンス・フィクション」と、「スペース・オペラ、宇宙冒険活劇」とは別々の形式なので、今後は両者を厳密に区別しなければならない。
 確かに「サイファイ」を広義に解釈するなら、その中に「スペース・オペラ」が含まれる場合もあるだろう。
 しかし、素直に形式分類するなら、宮部みゆき氏の「蒲生邸事件」のような作品と、田中芳樹氏の「銀河英雄伝説」のような作品は到底、同一ジャンルとは呼べないはずだ。また、映画で言えば、「ジュラシック・パーク」と、「スターウォーズ」を同一ジャンルに分類するのも、疑問である。
 以上の四作品を、すべて同じ「SF」というブランド名で売ってもいいのだろうか? それで大衆に信頼してもらえただろうか?
 答えは、「あまりにも無理がありすぎた」である。
 ましてや、「超メタ言語的な小説」を「現代SF」と称する行為に至っては、愚行そのものであろう。
 こうした「曖昧さ」を放置してきたことが、「SFブランドの大失敗」を生んだのだ。そのことを我々は忘れてはならない。
 やはり「サイファイ」と「スペース・オペラ」の場合、両者は別々のブランドである、と認識するべきであろう。
 今後、両者は別々の作家グループによって、別々に運営することが望ましい。それが双方のブランド商法の利益につながるのだから。

(6) サイファイ作家は、「人類から超人類への進化」といった主題を扱ってもいいが、以下の点を厳守すること。

a)超人類は悪役として描かねばならない。
b)そして人類の代表である主人公が、その超人類を滅ぼし、現世と現人類を守り抜いて物語を終えること。

 理由は、「人類から超人類への進化」といった主題が「反人類的・反社会的な思想」に直結しやすいからである。下手をすると、「現世を否定し、来世を待望する心理」を助長してしまう。
 これは、「あるはずのない超人類への進化」を「ある」と信じ込む妄念となる。つまり、どこにも存在しないイデアを信じてしまうのである。この点を自覚していないと、作家や評論家たちは「2400年も時代遅れなイデア主義」へと逆行してしまう。
 まさに「SF」は、そうした自滅の道を辿ったのだ!
    *
 このように現世と現人類を否定する思想は大変、危険である。自滅につながるからである。
 サイファイ作家は、常に「現世と現人類を肯定する作品」を書かねばならない。それこそ大衆読者が求めている作品であり、出版市場での繁栄につながる方向性である。
 図式にすると、
「SF   =現人類否定主義」
「サイファイ=現人類肯定主義」
となり、非常に相違点がわかりやすくなった。

 以上の六項目が、「サイファイ」を支える大黒柱となるだろう。
 (了)

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