宇迦之御魂神
ウカノミタマノカミ
別称:稲荷神(イナリノカミ)、宇賀御魂命(ウカノミタマノミコト)、倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)、大物忌神(オオモノイミノカミ)性別:系譜:素盞鳴尊の子。秦氏の氏神神格:穀霊神、農耕神、商工業神神社:伏見稲荷大社、豊川稲荷、笠間稲荷神社、祐徳稲荷神社、笠森稲荷、その他の稲荷神社
 宇迦之御魂神、別称の稲荷神のほうが馴染みがあるのではないだろうか。今日では一般に商工業方面に霊威を発揮する神として信仰されている。しかし、名前に「稲」とつくように、もともとは五穀と養蚕を司る穀物神、農耕神で、稲の生産、豊穣を守護する神として崇められた。その稲荷神を祀る稲荷社の祭神とされるのが宇迦之御魂神である。
 食物を司る御饌都(ミケツ)神ともいわれる本来の性格から、宇迦之御魂神はしばしば伊勢神宮の外宮に鎮座する豊穣の女神豊受大神と同一神格と見られたりする。日本の神さまというのは、神話などでは違った名前で出てきても、その基本的な性格がほとんど類似することから、同一神であるという論議がなされることが多い。ただし、それはあくまでも学問的な問題であって、われわれの生活のなかでは伏見稲荷大社の主祭神の宇迦之御魂神と伊勢神宮の豊受大神とははっきりと別な神なのである。
 さらに、稲荷神を祀る稲荷社についていうと、名もない社まで含めれば全国4万とも5万ともいわれる。その中には宇迦之御魂神以外の神を主祭神として祀る場合もある。しかし、そのいずれもが食物を司る神という性格上、宇迦之御魂神と同一神と見られたりすることの多い神さまである。
 もうひとつ稲荷神の複雑な部分として、全国の稲荷社は一般に神道系(神社)と仏教系(寺)にも分けられるということがある。神道系の総本社は、京都の伏見稲荷。一方、仏教系は真言密教のインド伝来の鬼神・陀枳尼天(ダキニテン)を主神として祀るもので、その総本山が豊川稲荷であり、ここから全国に勧請されている。どちらの系統にしても、その御利益にたいして変わりがあるわけではないので、全部ひっくるめて宇迦之御魂神ということにして話を進める。

 稲荷神は、もともと京都地方の豪族秦氏一族が、その氏神の農耕神として祀っていたものだ。古代には各地の有力豪族が、それぞれに自分たち独自の守護神(氏神)を祀っていた。稲荷神もはじめはそういう神だったのである。いわば一地方に生まれた稲荷神に対する信仰が、どうしてのちに日本中に広がることになったのか。その大きなきっかけとなったのが、平安時代初頭に仏教の真言密教と結びついたことである。そのための重要な役割を演じたのが真言宗の開祖、空海(弘法大師)だといわれている。
 唐で仏教の修行をして帰国後、高野山を開いたりしてめざましい活躍をしていた空海は、嵯峨天皇に認められて建設途中だった東寺(教王護国寺)を与えられた。そこで空海は、講堂を建立(825)するなどして、東寺が真言密教根本道場として栄える基礎を作った。その際、これに協力したのが秦氏で、建造用の木材を伏見の稲荷山から切り出して提供したという。このことがきっかけとなり、稲荷神は東寺の守護神として祀られたのである。
 こうして真言密教と強く結びついた結果、稲荷神は仏教的な現世利益の考え方を取り入れ、仏教の庶民への浸透とともにその信仰を拡大していくことになったのである。弘法大師の足跡が全国各地に残っていることを考え合わせれば、その広がりが想像できるだろう。ついでにいえば、こうした真言密教との結びつきから、白狐にまたがる陀枳尼天の姿が稲荷神と同一視されるようになり、陀枳尼天を主神とする神仏習合の稲荷社の信仰が広がることになったということである。
 それだけではない、稲荷信仰が拡大していく背景には、さらに大きな要因があった。中世から近世にかけての工業の起こり、商業の発展といった社会変化である。いうまでもなく稲荷神は現世利益信仰の代表格である。仏教的な現世利益の思想を取り入れることによって、稲荷神の神格はいよいよ柔軟性を増し、時代の変化から生じてくる人々の新たな欲求に自在に対応した。それによって信仰は急速に広がり、それにともなって稲荷神の神格も、本来の農業神から工業や商業など諸産業の守護神へと拡大していったのである。とくに近世の商業活動の発展には、稲荷信仰が大きなエネルギー源になったともいわれている。
 稲荷神は本来豊作の神であるから、それまでは農村を中心に祀られることが多かった。それが都市部へと広がって、大名屋敷や町屋にも稲荷神が勧請されるようになり、やがて非常に都市的な性格の強い側面を持つようになった。たとえば、江戸の町の様子を表した俗言に「伊勢屋 稲荷に 犬の糞」というのがある。これは、至るところで見かけられるものといった意味だ。このように江戸の隅々まで祀られたお稲荷さんは、福神信仰の中心的な存在となったのをはじめ、仕事のことから病気まで、都市生活者の衣食住に関わるこまごました願いや悩み事にも対応する、非常に便利な神さまとして、その性格を拡大していったのである。それが今日まで続いているお稲荷さんのイメージなのである。
 余談になるが、私個人としてはこういうなんでもありの神さまというものにあまり重みを感じることができない。あまりに身近すぎて神さまという感覚が薄れてしまうというのも理由の一つだが、なによりも、大衆に迎合しようとするあまりに神威を拡大しすぎたきらいがあるからだ。とくに仏教と習合した神々にはこの手のものが多く、好きになれない。もっとも、その原因は神々自身ではなく、それを政治的な統率手段としようとした人間にあるのだが。

 さて、お稲荷さんといえば誰でも狐をイメージするはずである。それくらいにポピュラーな存在だけに、狐を稲荷神と錯覚している人もいるくらいだ。しかし、これまで述べてきたように、稲荷神というのは宇迦之御魂神のことであって、狐はその稲荷神の使いとされる霊獣なのである。ただし、本来は神使ではあるのだが、実際の稲荷社の狐は、たんなる神使以上の存在として活躍しているのも事実である。
 たとえば伏見稲荷大社を参拝に訪れると印象的なのが、参道に立ち並ぶ赤い鳥居のトンネル、それに大小さまざまな数多くの狐塚だ。ここでは木や石で作られた祠にれっきとした神さまとして祀られている。伏見稲荷大社では、狐の神霊は命婦(ミョウブ)神と呼ばれ、ちゃんとした神さまとして待遇されているのだ。つまり、基本的な立場は神の意志を伝える役目なのだけれども、実質的には時に応じて神に代わって人々に御利益を授けたりして、超多忙の稲荷神の手間を省くというわけである。稲荷信仰の大流行の一端は、こうした狐のまめな働きがあったからこそであるともいえようか。
 ところで、狐がいつごろから神使として活動するようになったのかということについては、よく分かっていない。神と生き物との関係はほかにもけっこう見られるもので、三輪山の神と蛇、熊野神と烏、日枝神と猿、八幡神と鳩、春日神と鹿などがある。そのなかでも、蛇、猿、狐などは山の神と関係が深いという共通性を持っている。そこに稲荷神と狐の関係をうかがわせるヒントがあるようだ。というのも、まず狐は山に棲む獣である。そして冬から春にかけては里に降りてきて、穀物を食い荒らす鼠を捕って食べたりする。一方、古代民俗信仰の山の神は、春に山を降って田の神となり、秋の収穫が終わったあとに山に帰ると考えられていた。そうした狐の習性と人々の山神信仰が結びついて、狐が神の使い(あるいは神の化身)と考えられるようになった、という説である。
 また、稲荷神の使いとしての狐には、人に取り憑いて害をなすようなおどろおどろしくて気味の悪いイメージがつきまとう。これは、狐が霊力を持ち妖術を駆使する、という中国の考え方が日本にも入ってきて、稲荷神が真言密教の陀枳尼天と習合したときに発生したものである。そもそも、日本では神聖な山の神の化身とも考えられたくらいだから、妖術も使わないし人を惑わすこともなかった。ところが、大陸の狐のイメージが入ってきた平安時代以降、陰陽師や修験道の呪術者などが狐を使ってさまざまな呪術を行うようになった。そういう呪術者のなかの堕落したものが、人々を誑かして利を得るために、陰湿で怖いイメージを作り上げたのだ。人間に害を与える悪者のイメージは、狐自身の責任とはいえないわけである。