経津主神は、一般に香取神として知られている千葉県佐原市の香取神宮の祭神である。
古来、武甕槌神(鹿島神)と並び武神として朝廷や武家に厚く崇拝されてきた。
近世には武道の道場としても知られ、室町時代の中期の頃の発生した飯篠長威斎家直を始祖とする天真正伝香取神道流は、この香取の地を源流とする剣法である。
そのあらましはこうである。
あるとき長威斎は、香取神宮の神井(聖水の湧く井戸)を汚した人が即死したのを見て、香取の神の不思議な神威を感得した。
そこで彼は境内に住み(現在は長威斎の墓が建つ)、夜は神殿の前で祈念し、昼は梅の木に向かって木刀を振るい続けた。
そうしておよそ1000日、香取神の霊力によってついに剣法の奥義を開眼したという。
こうして生まれた香取神道流は、以後の剣術の発展にも大きな影響を与えた。
なお、鹿島神当流の祖で剣豪の誉れも高い塚原卜伝も長威斎の門弟と伝わる。
日本神話に登場する経津主神は、高天原の最高指令神の命令を受けて、武甕槌神と共に出雲国に降り、大国主命を説得して国譲りを成功させた神である。
また、経津主神は、強い霊力をもった剣の霊、つまり霊剣布都御魂剣の神格化であるとされている。
布都御魂剣の神格化といえば、同じ武神である武甕槌神も日本神話の中ではこの霊剣の神格化されたものとされており、本来は同一神といえる。
それがなんで分裂してしまったのか。
どうやら、同じ神霊を別々の有力な氏族が守護神として信仰していたから、という歴史的な事情が関係しているようである。
つまり、最初に大和朝廷を支えて権力を振るった物部氏が一族の祖神として祀っていたのが経津主神で、物部氏が衰退したあと、代わって政治の実権を握った中臣氏(後の藤原氏)が祖神としたのが武甕槌神だったのである。
同時に中臣氏は、物部氏の祖神経津主神も守護神として取り込んだのであろう。
そうした有力氏族に信仰されることにより、政治の実権を保証する軍事力=武神、軍神という色合いを強く持つ神になったといえるだろう。
布都御魂剣の項を参照していただければすぐに分かると思うが、この剣は実に強い破邪の霊力をもっている。
「布都御魂」というのは古代においては「御魂振り(ミタマフリ)」の儀式に用いる祭具を指し、宮廷祭祀の鎮魂の儀礼に使われたものだという。
「御魂振り」とは、鎮魂祭のことで、タマフリは鎮魂の古語である。
死者の魂を鎮め、あらたに復活することを祈る死と再生の儀式なのである。
朝廷における、その鎮魂の儀式を担当していたのが物部氏だった。
そうした視点から、物部氏は霊剣を祀る司祭であるといえる。
そこから経津主神は、剣の霊を祀る司祭の神格化という説もある。
香取神は、常総地方の水郷地帯の有力な地方神であった。
本来は、土地の人々を守る地主神であり、あらゆる自然現象を司り、生活に災害をもたらす悪霊を防ぐ守護神として信仰されていたのであろう。
常総の人々と香取神とのつながりを知る手だてはないが、「常陸国風土記」の信太群の条に、「天地の始めの頃、普都大神と名乗る神が降りてきて、日本中をめぐり、山河の荒ぶる神を鎮めた」といった記述がある。
この「山河の荒ぶる神の首領」のイメージこそ、香取神の原像に近いのではないだろうか。
古代、常総の地は大和朝廷が東北地方へとその勢力を広げていく前線基地であった。
ここをベースにした朝廷軍は、この地の有力な地方神である香取神や鹿島神を守護神として祀り上げることによって、東北地方のまつろわぬ人々を鎮める霊威が発揮されることを願ったのである。
以上のように、経津主神の来歴をたどると、朝廷やら武家やらといった権力との深いつながりからいかめしいイメージが強いが、今日、香取神として庶民に信仰されているイメージは、生活の守り神として悪霊を防いでくれる親しみのある神さまというものである。