仲哀天皇は、大和から九州の熊曾を征討するための遠征中に死んだとされている。
その意味では軍神としての性格をもっているといっていいだろう。
だが、熊外の戦いに敗れ、目的を達成することなく死んでしまうというふうに、その生涯に「挫折」のイメージが刻み込まれている。
一般に仲哀天皇というと、「神功皇后の夫」という脇役的なイメージが強い。
なにしろ妻の神功皇后は、新羅征討の女傑で、神秘的な霊力を持つ巫女、さらに神の子を産んだ聖母という、立派すぎる肩書きを持ち、今日でもあの卑弥呼と並び称される実力者なのだ。
夫婦として見たときに圧倒的に女性上位の感じを受けるだけでなく、神さまとして見ても影がうすいという印象がある。
これには、「記紀」に記された事跡が大いに関係している。
「仲哀紀」によれば、熊曾を討つために筑紫の香椎宮におもむいた仲哀天皇が、そこで神の意志を占った。
そのとき神功皇后は神懸かりして、「西方に金銀財宝の豊かな国(新羅)がある。これを服属させて与えよう。」と託宣する。
ところが仲哀天皇は、その神の言葉を信用しようとしなかった。
ために神の怒りにふれて急死してしまった。
このあと、神功皇后は天皇の葬儀をして殯宮(モガリヤ(後の香椎宮))に収め、もう一度神の意志を占うと、「この国は皇后の懐妊した御子(後の応神天皇)の治める国である」と託宣があったという。
「仲哀」という名前は、天皇の死後に付けられた諡号(シゴウ=おくり名)であるが、その悲運をイメージしてつけられたことを感じさせる。
ちなみに、この時神功皇后に神懸かりした神霊は、住吉三神とも託宣神の事代主神ともいわれている。
住吉三神は海の神、航海の守護神であるが、この話の中では神功皇后に、新羅遠征の成功を願う呪術の方法を教えている。
そういう意味では、新羅遠征を守護する戦神といった色合いが強い。
こうした住吉三神との関わりは、神功皇后の存在を媒介して、仲哀天皇の神霊としての機能にも少なからず影響していると考えられる。
では、神さまとしての仲哀天皇をどのように考えればいいのかとなると、これはやはり妻の神功皇后、息子の応神天皇との関係で理解する必要がある。
ある意味で仲哀天皇は、「神の子」である応神天皇を誕生させる脇役ともいえる。
「神の怒りにふれた」仲哀天皇の非業とも思える志も、実は神の意志を確認する作業という役割を果たすものといえる。
つまり、仲哀天皇の死を契機に神の意志を確認した神功皇后は、新羅遠征を決定し、その事業を成功させて、神の子を産む聖母としての「資格」を獲得。
そうして最終的な目標である神の子(応神天皇)の出現を達成した。
このように考えれば、神さまとしての仲哀天皇は、偉大な神の御子の出現をサポートする存在であるということができる。
むしろ、そう考えた方がこの神のイメージがはっきりするだろう。
もちろん、別の想像も可能だ。
仲哀天皇の急死は、本当は新羅への遠征に反対したことで暗殺されたという解釈である。
そうなると、当然仲哀天皇の霊は何らかの恨みを残していると思われる。
仲哀天皇の持つある種の暗いイメージは、そこに起因しているのかもしれない。